活動状況

2012年7月18日水曜日

マダガスカルとは

マダガスカルとは:特別展「マダガスカル 霧の森のくらし」にちなんで

2011年、NHKは、福山雅治を案内役としたドキュメンタリー番組「ホットスポット 最後の楽園」を放映しました。それ以来、マダガスカルの認知度は、日本でもずいぶん高くなったようです。でも、意外と基本的なことが知られていません。この国が日本より大きいとか、在来言語がアジアやオセアニアのものに近いとか、ご存じでしたか?

 マダガスカル島は、アフリカ大陸の東の海上にあります。大陸に較べるとそれほど大きくないようにみえますが、面積は約59万平方キロメートル、日本の国土面積の約1.6倍にあたります。島としては、グリーンランド島、ニューギニア島、カリマンタン(ボルネオ)島に次いで世界第4位の大きさです。


島は、中生代にアフリカ大陸やインド亜大陸と切り離されました。その当時、人類はおろか、キツネザルの祖先もまだ島にはいなかったといわれています。
人類がこの島に住みついた年代は、はっきりとはわかっていません。もっとも古い人工の遺物は約2000年以上前に遡るといわれますが、定住者が残したものとは言いきれません。長期間用いられた住居址のうち、もっとも古いものは、8世紀頃のものといわれます。
そのような遺跡を残した人は、島外のどの地域からやってきたのか? いろんな推測が可能ですが、手がかりのひとつは、島固有の言語です。この国で古くから話されてきたマダガスカル語(マラガシ語)は、オーストロネシア語族というグループに分類されます。このグループの言語は、アフリカ大陸ではほとんど話されておらず、台湾やインドネシアなど東南アジア島嶼部、ポリネシアをはじめとするオセアニア各地などに広く分布しています。すぐれた航海技術をもった人たちが、マダガスカル島への人口移動にも、なんらかのかたちで関わったと考えられます。

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特別展「マダガスカル 霧の森のくらし」は、2013年春に大阪で開催予定です。詳しくは次のサイトをご覧ください。
特別展実行委員会サイト  (http://www.mistyforest13.com/)

飯田 卓 (国立民族学博物館 民族社会研究部)

2011年11月3日木曜日

不気味な植物


マダガスカルに植えた植物です。なんでしょう?
皆さんも小学低学年で必ず育てたことがある植物です。

 

勘の良い人は、葉っぱを見ただけで気が付くかと思いますが、
幹のように太い茎を見て躊躇していませんか?
 

地上40cmでもこの太さがある「つる」です。
もうこれは、「木」と言ってよいでしょう。
しかも金網に食い込んで成長しているのですよ。
 



そうなんです。朝顔です!
日本から種を持ってきてくれ敷地内に植えたところ、
育つは育つは毎日「25cm」の驚異的なスピードで成長し続け、
今では枯れた花から種ができ、
その種がまた発芽しているというマカ不思議な現象が起きています。
            






当国は、南半球に位置しているので、つるは、左巻きに成長すると思われる方がいるようですが、実は右巻きです!地球の磁気は、植物の成長に影響がないようですね。一日に開花する数は、最低でも100を軽く超えます(これも実際に数えました)。

 



中にはこう言う「ぐれた葉」もいました!?↓

 



ブラシの木

ブラシの木(ブラシノキ)は、通常、赤花をブラシの木やキンポウジュ(錦宝樹)と呼び、白花品種はマキバブラシノキ(槙葉ブラシの木)と呼んでいますが、ブラシ状をした鮮紅色または白い花序(花房)をつける耐寒性常緑小高木です。花房は雄シベの先に金粉が付いているように光ります。花後に実がなりますが、山火事にあうまで木についたまま種子を出さず山火事にあって木が死んだら実が割れて種子が飛び散る性質があると言われています。葉は緑色で堅い革質をしており、葉形は線形または被針形、船形で、葉の付き方は互生です。

これが、つぼみですよ。

一般名:ブラシの木(ブラシノキ)
学名:Callistemon peciosus
別名:カリステモン(Callistemon)、キンポウジュ(錦宝樹、赤花品種)、マキバブラシノキ(槙葉ブラシの木、白花品種)、ハナマキ(花槙)、ボトルブラッシュ(Bottle brush)[ブラシノキ(ブラシの木、赤花品種)]
科属名:フトモモ科ブラシノキ属
原産地:オーストラリア
樹高:200500cm 花色:赤・白 花序高:610cm 開花期:37
葉長:710cm 葉幅:0.5cm

マダガスカル鉄道・雑記

マダガスカル鉄道・雑記

最初の鉄道は1901年4月1日、 アリブラヌ(Anivorano)町と東海岸の港町タマタブ(Tamatave)の近くにある町に敷設され、マダガスカル 鉄道の歴史が始まった。
タマタブ市(Tamatave)とブリーカビル市(Brickaville) を結ぶ路線は1909年4月1日、公式に開通した。首都アンタナナリヴォ(Antananarivo)で最初の駅、スアラヌ(Soarano) 駅はまだ建設中だったが、この駅も、1年後には運営をはじめた。

ブリーカビル市(Brickaville) からの鉄道延長工事の完成式典は、タマタブ市(Tamatave)に於いて、1913年3月06日に盛大に執り行われた。
 これ以降、首都アンタナナリヴォ(Antananarivo 東海岸(East Coast)路線は、 TCE 線と呼ばれるようになった。
1915年5月31日には、MLA線と呼ばれる、(ムラマンガ市(Moramanga )―アラウチャ(Alaotra lac))路線が開通した。 1922年6月25日になると、アラウチャ湖 (Alaotra lac) ― アンバツンジャザカ町(Ambatondrazaka)間の路線も延長された。

1912年3月4日に、首都アンタナナリヴォ(Antananarivo)から南部のアンチラベ市(Antsirabe)に向かう路線も起工式が行われた。(現在の国道7号線と並行する鉄道)。この路線は、 1923年10月15日に開通し最初の列車が、アンチラベ市(Antsirabe) の駅を出発して行った。此の路線は、 T.A 線と名づけられた。

1936年4月1日には、東南部のフイアナランツア (Fianarantsoa)-マナカラ(Manakara)間の路線も完成し、FCE線と言う名前の路線となった。
下記の事情により、他の路線での客車運行は停止したが(貨物列車だけとなった)、FCE線では今でも客車運行も継続されている。
但し、他の路線でも、予め一定以上の乗客を集めて、交渉すればマダガスカル鉄道の旅を体験する事が出来る。
1951年になると鉄道組織は官営事業となりマダガスカルの鉄道公社(REGIE DES CHEMINS DE FER DE MADAGASCAR)(RCFM)となった。
1982年 5月06日に、完全な国営鉄道となり、マダガスカル国鉄は、全国ネットワークマラガシ鉄(RNCFM)鉄道となった。
残念なことに、機材整備不足から安全運行が困難となり、同時に車の普及もあって、1996年から北部路線の客車は無くなり、完全に貨物列車だけの運行となった。
政府の政策変更、国有企業の民営化、を受けて2002年10月10日に民間企業のコマザル社が鉄道施設・運行の経営権を取得した。同時に鉄道の名称も、国鉄時代のマダガスカル鉄道全国ネットワークマラガシ(RNCFM)からマダレール(MADARAIL)また(MADAGASCAR RAILWAYS)と変更された。
2008年以降、ベクーツリス(VECTURIS)と言うベルギーの企業がマダレールの最大株主である。

全鉄道延長距離:860km
路線ごとの距離:
アンタナナリヴォ首都(Antananarivo 東海岸 (East Coast
TCE 線:369km
アンタナナリヴォ首都(Antananarivo アンチラベ市(Antsirabe
TA線:158km
フイアナランツア(Fianarantsoa、アンチラベから更に南に位置)-マナカラ(Manakara、東部海岸)
FCE 線:164 km
ムラマンガ市(Moramanga アラウチャ湖(Alaotra lac))
MLA線:169km

*民営化以降
 民営化以降、各駅の改装を行い首都の駅も随分と綺麗になり、昔の待合室の部分には幾つかのテナントが入店・開業して、何となく、エキナカ・エキュート風になった。勿論規模は小さい。地方の駅も再塗装され、少し大きな駅にはちょっとした食事が出来るレストランも併設された。
特に首都の駅に隣接した、如何にもパリの小洒落たカフェを模して、Cafe de la Gare(文字どおり駅カフェ)が2009年11月3日にオープンした。開店当初は予約しなければ席が取れないほど人気の高いフランス料理店となった。兎に角首都は交通事情が悪く、殆どのレストランに十分な駐車スペースが無く何人かで会食の時は、皆で車を乗り合わせ行かないと駐車に困る。其の点、この「駅カフェ」は昔の駅の構内が駐車場として使えるので、停めようと無理すればゆうに数十台分の駐車スペースがある。
鉄道の将来
マダガスカルの政治(常に問題?、時に平穏)・経済情勢の制約を受けるが、兎に角首都は慢性的な交通渋滞。車輛が増える速度に道路の拡張が間に合わない。従い、交通渋滞が短期間で改善される事は無いだろうし、むしろ益々悪化すると想定される。
先進諸国でも、環境問題から、鉄道による大量輸送が見直されつつある。せめてマダガスカルでも通勤時間帯だけでももう一度客車の運行を再開する時が来るかもしれない。そうすべきと考えるが、そのための資金がない。

マダガスカル略史:
18世紀~19世紀初頭; メリナ王朝
1896年;          フランス植民地
1985年;          共和国宣言
1960年10月;       フランスから独立、チラナナ大統領就任(第一共和制)
1972年5月;        ラマナンツオア政権誕生
1973年5月;        フラン圏離脱、マダガスカルフラン(fmg)発行
1975年6月;        ラチラカ政権誕生、社会主義政策採用宣言

北杜夫「マンボウ響躁曲」文春文庫 1982年5月出版
初出;「文藝春秋、昭和52年1~6月号」1977年。以下抜粋・引用。
 それは、あれほど懲りていた阿川さんの汽車旅行に同行したいという一念である。
 これは冷静に考えれば、ずいぶんと危険なことといえた。あのマダガスカル島の上下左右にガタ揺れする恐るべきオンボロ列車の旅で、私はあやうくクタバリかけたではないか。
 なにせ時刻表によれば13時間のはずだったが、アフリカよりもむしろ東南アジアの入りまじるこの奇態な島の至極のんびりした風習として、もちろん時間どおりには着かないのだ。なにせ、その年の秋、或る日のこと汽車がなんの拍子か定刻ぴったりに着いてしまったら、乗客のマダガスカル人の一人は、2月に起こったクーデター騒ぎのドンドンパチパチ事件より驚愕して、ショック死をとげたという話だ。
 思い返せば、阿川さんと海軍の同期である加川隆明マダガスカル大使一家と私の乗る汽車は、時間表などぜんぜん無視してゴトゴトガタガタと走りつづけた。次第に暮色がつのり、はや夜にはいっている。遅延も遅延、大遅延らしい。
 それなのに阿川さん一人は、同行のマダガスカル語の分かる青年と一緒に、ときに機関車に乗り込み、汽笛の紐を引っぱてはピーポーと鳴らし、大いに悦に入ってニコニコしていた。
 大使と私はむろんのこと、おもしろかろうはずはなく、疲労が刻一刻といやつのってくる。「おい、もうとうに着いてよいはずだのに、汽車は一体どこいらまで来ているのだ」と、加川大使。
「あと、駅は幾つあるんです?」と、私。
 汽車はごくしばしば、貧相な停車場ともつかぬ駅にとまるのだ。
 それなのに、阿川さんは駅の名を記したタイムテーブルを持っているくせに、がんとしてそれを見せない、さすがに一同に対して罪悪感を抱いたのであろう。
「ええとですね。東海道線で東京に向かっているとすると、もう横浜はとうに過ぎた、と言って良いでしょう」
 それからずいぶんと経ったが、汽車は相変わらず暗黒のなかをノロクサと、しかもえもいわれぬ振動を伴ってはしる。
「おい、いくらなんでももう着いてもよいだろう」
 阿川さん慌てて、
「そう、もう品川、それもとうに過ぎたくらいと思って頂きたい」また時間が経ち、
「品川から東京駅まで、いやに長いもんだんなあ」と、加川大使。
「まあ、そう言うなよ。一応、済みませんと申しておきます」
 それからもかなりの時間を喰って、オンボロ汽車はついに、やっと、ようやく目的地に脱線もせず到着した。私は体じゅうがこわばって、かつ痛かった。
 これがマダガスカル島の首都タナナリヴから東海岸のタマタブまでの汽車旅行始末。
 それにしても、加川大使は歴代のマダガスカル大使のなかで、こんな汽車旅行をしたのは初めてにして最後の人物となろう。
タマタブまでは空路もあるからである。これも阿川さんのおかげ、或いはその不吉にして幸福なる魔力によるものか。
 それでも、その時こそ多少の恨みを持ったものの、あとでわたしは阿川さんに心底から感謝したものだ。「どくとるマンボウ航海記」の冒頭に出てくるマダガスカル島のアタオコロイノナという変てこりんな神さまの話を書いた身にとっては、彼のおかげなくしては、とてもこんなとび離れた島にくることもなかったろうと痛感したからである。
 とはいえ、繰返すが、くたびれはてたことは、茹でられたタコさながらであったのだ。

 
鉄道略史
1807 イギリス(ウェールズ)で世界初の馬車鉄道が開業。後の路面電車併用軌道電車)の原形となる。
1825 イギリスに世界初の商用鉄道が現れる。イギリスのストックトンダーリントン間を結ぶ鉄道が開業した。
1872 日本で鉄道開業。
新橋横浜間を結んだ。日本では、1854年にペリーが蒸気機関の鉄道模型を紹介し、その後、明治時代に入ってイギリスの指導で鉄道の建設が始まった。旧新橋駅は現在の汐留にあり、昭和時代には広大な貨物ターミナル駅があったが現在は高層ビル群となっている。また、旧横浜駅は現在の桜木町にあり、現在の横浜駅はまだ海で、沖に堤が築かれ線路が敷設されていた。
1891マダガスカル国有鉄道の敷設が始まる。

4.囲碁チャンピョン招請

囲碁チャンピョン招請

マダガスカルでの囲碁は1991年に始まりました。
興味を持つ人たちで囲碁クラブを結成。日本大使館と交渉し、1994年から日本大使館主宰の囲碁大会が開かれるようになりました。
現在、囲碁クラブは5ヶ所に増え、囲碁人口も500人ほどになっています。
2011年3月に開催された第17回マダガスカル囲碁大会ではマンチャさんが優勝。


徳安公使による優勝者(マンチャさん)表彰

そこで、日本棋院、日本大使館、有志の方と折衝し、2011年のマダガスカル囲碁チャンピョン
マンチャさんを「第32回世界アマチュア囲碁選手権戦 島根大会」に招請することになりました。
世界アマチュア囲碁選手権大会は、元々某航空会社の冠大会で、当初は参加選手の飛行機代を負担していましたが、経営不振となり選手の自己負担となりました。
近距離の東南アジア諸国や囲碁連盟が資金的に余裕のある国は自己負担で参加できますが、マダガスカルから自己負担での参加は天文学的な金額になります。
そこで、飛行機代を日本マダガスカル協会が負担、日本棋院さんの日程をオーバーする宿泊費を有志で負担しました。総額約30万円。
これでマダガスカルの囲碁人口が少しでも増えると嬉しいですね。
本大会は、日本・中国・韓国が持ち回りで開催され、来年は中国で開催されます。

対局中のマダガスカル囲碁チャンピョンマンチャさん


3.マダガスカルの動物園への支援



マダガスカルの動物園への支援

マダガスカルの動植物は固有種が極めて多いことから、動植物に関心のある人たちには非常に興味のある国です。

*チンバザザ国立動植物園。

首都の中心地に近く、全国から動植物・鳥・爬虫類を集めて展示している。残念ながら資金不足により施設全体に老朽化が激
しく手入れも不十分である。立地条件に恵まれている割には来園者数が伸びない。従い、入園料も頭打ち。資金不足に陥るという悪循環。

この分野の日本との関係

1.上野恩賜公園。アイアイの森でマダガスカルの原猿を見ることができる。パンダの方が人気がある。

2.仙台・八木山動物園、一昨年からJICA草の根技術協力制度を使って、チンバザザ動物園と環境教育普及活動を続けている。東日本震災の被害を受けたために、本体の八木山動物園の復旧が優先される。

3.東京農業大学。故近藤典夫教授がマダガスカル学の先駆者の一人であったことから、マダガスカルとの関係は継続している。意外と卒業生は近藤教授のこと を知っていない。農大⇒進化生物研究所⇒NGOサザンクロスジャパン。NGOサザンクロスジャパンは、郵便局の支援制度(既に中止)などを使ってマダガス カル最南部地域で、外来種のウチワサボテンを抜去して固有種の植林事業を継続。

4.日本アイアイファンド。アイアイ研究の第一人者である島泰三氏が代表のNGOとしてマダガスカル北西部の保護区で、アイアイの主食であるラミーの植林とアイアイの保護活動を継続している。

5.到津(イトウズ)の森公園。北九州市小倉区上到津4-1-8精しくは、http://www.kpfmmf.jp/zoo/
JICA草の根技術パートナー型(上限、5千万円、36ヶ月)の申請準備中。採択されれば、チンバザザ動植物園の運営改善、施設改修を実施する。
北九州および近隣の人は、マダガスカルに関心を持っている。

到津の森公園「マダガスカルの世界館」

 

2.AMBOHIDRANO村落開発


村落開発
と言うほど大げさなものではなく「村おこしの」の一助または前例になればと手がけているもの。
村での実際の活動は、濱口光隊員OBの自己負担によるボランティア活動である。
村の名前:アンブヒジャーノ村
日本大使館所在地から北東約14キロ、首都の郊外だが首都圏の一部。大使館所在地から車での所要時間は;20分~1時間半、所要時間に大差があるのは慢性的な交通渋滞の状況次第。最大の消費市場である首都近くなので、将来の収穫物の販売に有利である。早朝に収穫しての輸送ならば交通渋滞に巻き込まれることも無い。
人口: 974名     世帯数:237世帯
人口構成:
成人比率:20歳以下;519名、   20歳以上;455名
*平均寿命が短いため、50台から減少し、60歳以上の高齢者数は激減。
便宜的に20歳で区分してみたが、現実は、中学卒業くらいから働き始める。地域(村)では新規参入労働人口の増加に見合う雇用機会の創出は困難であろう。従って、僅かな農業収入を皆で分け合うことになり、農業収入が横ばいとすれば、個人当りの収入は年々低下する。これでは意欲は起きない。勢い首都で仕事を探すことになる。各地からの出稼ぎ人の流入で、首都でも中々良い仕事は見つからない。全国的に人口が増加しているため、若年・幼児の成長に見合うだけの地場産業の育成が必要不可欠である。

*単一作物では、収穫時期が大規模農業と重なり、他の生産地との価格競争が不利であることから、総合的・長期的な村おこしを目指す。多品種・少量生産だけでなく、他の生産地との品質の差別化を計る。兎に角、マダガスカルの農民は量を重視し、品質は軽視している。大量に収穫しようとするため作が   行き届かず、品質の良い産品はできない。農産品のみならず、全ての商品で、品質がよければ値段が高くても購入すると言う、富裕層市場は既に顕在化しており、この市場は将来も拡大する事は間違いない。この村のように耕作面積の拡張が望めない土地では、多品種少量生産として年間を通じて収穫・現金収入とした方が良いだろう。

*外来種のユーカリ樹を抜去し、その後に色んな果樹・在来種の広葉樹・マメ科樹種を移植した。一般的に果樹の手入れが悪く、整枝・剪定・摘果をやらないために、果樹は株立ちとなって日当たり・風通しが悪く、そのため良い・高級な果物が採れない。この地域で先駆的に試みる。果樹が育つのは、早くて3年、樹種によっては5年くらい掛かる。
                 
外来種ユーカリの林 (2009年)




ユーカリは根本から抜き取った
          
コイ・ティラピア養殖池も完成(2011年3月)





*小川沿いには、アイアイの主食となるラミーと言う木50本も植樹した。



*この村の村起こしのために果樹栽培に取り掛かった。

雨季の始まる10月から、果樹300本を植樹。合わせて他所の村では栽培していない花卉・野菜も検討してしている。他所と同じ物を作っていては優位に立てない。副業として需要の高い、ティラピア・コイの淡水養殖池も造成した。
 

*フランスに「フランスで最も美しい村」と言うのがあります。これと同じ村起こし。日本でも、OOO生産日本一と言う宣伝文句があるように、OOO生産マダガスカルで一番を目指す。何でも、一番になれば、それなりの宣伝ができる。二番ではいけません。

*私見だが、技術協力の考え方で、できる事はやる必要はない筈。できない事に挑戦する志が失われてきた、精神的に貧しくなった。理由の一つとして、日本側が前例踏襲主義に陥り、組織維持・自己保身の余り、余裕がなくなってしまった。サントリー創業者の鳥井社長のように「分からない事は、やってみなはれ」と言う大人も少なくなってしまった。

*マダガスカルの若年人口は増えているので、都会に出ても仕事もないし、農業で食べていければ、と言う部分に可能性がある。