マダガスカル鉄道・雑記
*最初の鉄道は1901年4月1日、 アリブラヌ(Anivorano)町と東海岸の港町タマタブ(Tamatave)の近くにある町に敷設され、マダガスカル 鉄道の歴史が始まった。
タマタブ市(Tamatave)とブリーカビル市(Brickaville) を結ぶ路線は1909年4月1日、公式に開通した。首都アンタナナリヴォ(Antananarivo)で最初の駅、スアラヌ(Soarano) 駅はまだ建設中だったが、この駅も、1年後には運営をはじめた。
ブリーカビル市(Brickaville) からの鉄道延長工事の完成式典は、タマタブ市(Tamatave)に於いて、1913年3月06日に盛大に執り行われた。
これ以降、首都アンタナナリヴォ(Antananarivo)– 東海岸(East Coast)路線は、 TCE 線と呼ばれるようになった。
1915年5月31日には、MLA線と呼ばれる、(ムラマンガ市(Moramanga )―アラウチャ(Alaotra lac))路線が開通した。 1922年6月25日になると、アラウチャ湖 (Alaotra lac) ― アンバツンジャザカ町(Ambatondrazaka)間の路線も延長された。
1912年3月4日に、首都アンタナナリヴォ(Antananarivo)から南部のアンチラベ市(Antsirabe)に向かう路線も起工式が行われた。(現在の国道7号線と並行する鉄道)。この路線は、 1923年10月15日に開通し最初の列車が、アンチラベ市(Antsirabe) の駅を出発して行った。此の路線は、 T.A 線と名づけられた。
1936年4月1日には、東南部のフイアナランツア (Fianarantsoa)-マナカラ(Manakara)間の路線も完成し、FCE線と言う名前の路線となった。
下記の事情により、他の路線での客車運行は停止したが(貨物列車だけとなった)、FCE線では今でも客車運行も継続されている。
但し、他の路線でも、予め一定以上の乗客を集めて、交渉すればマダガスカル鉄道の旅を体験する事が出来る。
1951年になると鉄道組織は官営事業となりマダガスカルの鉄道公社(REGIE DES CHEMINS DE
FER DE MADAGASCAR)(RCFM)となった。
1982年 5月06日に、完全な国営鉄道となり、マダガスカル国鉄は、全国ネットワークマラガシ鉄(RNCFM)鉄道となった。
残念なことに、機材整備不足から安全運行が困難となり、同時に車の普及もあって、1996年から北部路線の客車は無くなり、完全に貨物列車だけの運行となった。
政府の政策変更、国有企業の民営化、を受けて2002年10月10日に民間企業のコマザル社が鉄道施設・運行の経営権を取得した。同時に鉄道の名称も、国鉄時代のマダガスカル鉄道全国ネットワークマラガシ(RNCFM)からマダレール(MADARAIL)また(MADAGASCAR RAILWAYS)と変更された。
2008年以降、ベクーツリス(VECTURIS)と言うベルギーの企業がマダレールの最大株主である。
*全鉄道延長距離:860km
路線ごとの距離:
アンタナナリヴォ首都(Antananarivo)– 東海岸 (East Coast)
TCE 線:369km
アンタナナリヴォ首都(Antananarivo)– アンチラベ市(Antsirabe)
TA線:158km
フイアナランツア(Fianarantsoa、アンチラベから更に南に位置)-マナカラ(Manakara、東部海岸)
FCE 線:164 km
ムラマンガ市(Moramanga )- アラウチャ湖(Alaotra lac))
MLA線:169km
*民営化以降
民営化以降、各駅の改装を行い首都の駅も随分と綺麗になり、昔の待合室の部分には幾つかのテナントが入店・開業して、何となく、エキナカ・エキュート風になった。勿論規模は小さい。地方の駅も再塗装され、少し大きな駅にはちょっとした食事が出来るレストランも併設された。
特に首都の駅に隣接した、如何にもパリの小洒落たカフェを模して、Cafe de la Gare(文字どおり駅カフェ)が2009年11月3日にオープンした。開店当初は予約しなければ席が取れないほど人気の高いフランス料理店となった。兎に角首都は交通事情が悪く、殆どのレストランに十分な駐車スペースが無く何人かで会食の時は、皆で車を乗り合わせ行かないと駐車に困る。其の点、この「駅カフェ」は昔の駅の構内が駐車場として使えるので、停めようと無理すればゆうに数十台分の駐車スペースがある。
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鉄道の将来
マダガスカルの政治(常に問題?、時に平穏)・経済情勢の制約を受けるが、兎に角首都は慢性的な交通渋滞。車輛が増える速度に道路の拡張が間に合わない。従い、交通渋滞が短期間で改善される事は無いだろうし、むしろ益々悪化すると想定される。
先進諸国でも、環境問題から、鉄道による大量輸送が見直されつつある。せめてマダガスカルでも通勤時間帯だけでももう一度客車の運行を再開する時が来るかもしれない。そうすべきと考えるが、そのための資金がない。
マダガスカル略史:
18世紀~19世紀初頭; メリナ王朝
1896年; フランス植民地
1985年; 共和国宣言
1960年10月; フランスから独立、チラナナ大統領就任(第一共和制)
1972年5月; ラマナンツオア政権誕生
1973年5月; フラン圏離脱、マダガスカルフラン(fmg)発行
1975年6月; ラチラカ政権誕生、社会主義政策採用宣言
北杜夫「マンボウ響躁曲」文春文庫 1982年5月出版
初出;「文藝春秋、昭和52年1~6月号」1977年。以下抜粋・引用。
それは、あれほど懲りていた阿川さんの汽車旅行に同行したいという一念である。
これは冷静に考えれば、ずいぶんと危険なことといえた。あのマダガスカル島の上下左右にガタ揺れする恐るべきオンボロ列車の旅で、私はあやうくクタバリかけたではないか。
なにせ時刻表によれば13時間のはずだったが、アフリカよりもむしろ東南アジアの入りまじるこの奇態な島の至極のんびりした風習として、もちろん時間どおりには着かないのだ。なにせ、その年の秋、或る日のこと汽車がなんの拍子か定刻ぴったりに着いてしまったら、乗客のマダガスカル人の一人は、2月に起こったクーデター騒ぎのドンドンパチパチ事件より驚愕して、ショック死をとげたという話だ。
思い返せば、阿川さんと海軍の同期である加川隆明マダガスカル大使一家と私の乗る汽車は、時間表などぜんぜん無視してゴトゴトガタガタと走りつづけた。次第に暮色がつのり、はや夜にはいっている。遅延も遅延、大遅延らしい。
それなのに阿川さん一人は、同行のマダガスカル語の分かる青年と一緒に、ときに機関車に乗り込み、汽笛の紐を引っぱてはピーポーと鳴らし、大いに悦に入ってニコニコしていた。
大使と私はむろんのこと、おもしろかろうはずはなく、疲労が刻一刻といやつのってくる。「おい、もうとうに着いてよいはずだのに、汽車は一体どこいらまで来ているのだ」と、加川大使。
「あと、駅は幾つあるんです?」と、私。
汽車はごくしばしば、貧相な停車場ともつかぬ駅にとまるのだ。
それなのに、阿川さんは駅の名を記したタイムテーブルを持っているくせに、がんとしてそれを見せない、さすがに一同に対して罪悪感を抱いたのであろう。
「ええとですね。東海道線で東京に向かっているとすると、もう横浜はとうに過ぎた、と言って良いでしょう」
それからずいぶんと経ったが、汽車は相変わらず暗黒のなかをノロクサと、しかもえもいわれぬ振動を伴ってはしる。
「おい、いくらなんでももう着いてもよいだろう」
阿川さん慌てて、
「そう、もう品川、それもとうに過ぎたくらいと思って頂きたい」また時間が経ち、
「品川から東京駅まで、いやに長いもんだんなあ」と、加川大使。
「まあ、そう言うなよ。一応、済みませんと申しておきます」
それからもかなりの時間を喰って、オンボロ汽車はついに、やっと、ようやく目的地に脱線もせず到着した。私は体じゅうがこわばって、かつ痛かった。
これがマダガスカル島の首都タナナリヴから東海岸のタマタブまでの汽車旅行始末。
それにしても、加川大使は歴代のマダガスカル大使のなかで、こんな汽車旅行をしたのは初めてにして最後の人物となろう。
タマタブまでは空路もあるからである。これも阿川さんのおかげ、或いはその不吉にして幸福なる魔力によるものか。
それでも、その時こそ多少の恨みを持ったものの、あとでわたしは阿川さんに心底から感謝したものだ。「どくとるマンボウ航海記」の冒頭に出てくるマダガスカル島のアタオコロイノナという変てこりんな神さまの話を書いた身にとっては、彼のおかげなくしては、とてもこんなとび離れた島にくることもなかったろうと痛感したからである。
とはいえ、繰返すが、くたびれはてたことは、茹でられたタコさながらであったのだ。
鉄道略史
新橋・横浜間を結んだ。日本では、1854年にペリーが蒸気機関の鉄道模型を紹介し、その後、明治時代に入ってイギリスの指導で鉄道の建設が始まった。旧新橋駅は現在の汐留にあり、昭和時代には広大な貨物ターミナル駅があったが現在は高層ビル群となっている。また、旧横浜駅は現在の桜木町にあり、現在の横浜駅はまだ海で、沖に堤が築かれ線路が敷設されていた。